火の玉ストレートで阪神の優勝に大きく貢献した藤川球児
藤川球児投手といえば、2005年にブレイクして,
7回にセットアッパーとして火の玉のストレートで次々と三振の山を築いていき、阪神の優勝に大きく貢献したことが今にも記憶に鮮明に残っています。
そして7回に見事な火消し役を務めあげました。
それゆえに相手の攻撃チャンスは実質、6回までみたいなものでした。
2005年にブレイクするまでは先発として何回か登板していたが、目立った活躍はなくて1軍と2軍を行ったり来たりの繰り返しでした。
このような生活が何年か続いて、危うく解雇になるところでしたが、このような窮地を救ってくれたのが、岡田監督と山口投手コーチでした。
特に山口投手コーチが2004年に藤川投手のリリーフとしての適性を見い出して「なあ、球児」という言葉が発端となり、
2004年の後半戦からリリーフとしてのポジションを確立し、それ以降あのような活躍ができるようになりました。
JFKの一人としてセットアッパーを担い、2005年には17連続ホールドという大記録を樹立したことも印象に残っています。
そして当時巨人の清原選手にも20年間の間で一番最高のストレートだとお褒めの言葉を頂くまでになりました。
この年の活躍で藤川投手も持ち味は火の玉のストレートで、リリーフとして短いイニングを投げてこそ藤川投手の持ち味が生かせることが、全国の阪神ファンも認めるところでした。
危うくクビになりかけたところを救った山口投手コーチは、本当に救世主だったと思います。
翌年の2006年にもセットアッパーとしてスタートしましたが、交流戦後に抑えの久保田智之投手の離脱により、抑えに転向しました。
ポスティングを封印し、阪神のために投げ続けた藤川球児
2007年、2008年のオフにはポスティングによるメジャー移籍を匂わせていたが、特に2008年にクライマックスシリーズで、中日のウッズ選手に決勝ホームランを打たれて涙を流し、そこで藤川投手は阪神タイガースでまだまだすることがたくさんあると自覚したかもしれません。
おまけにその年は巨人との熾烈な優勝争いに敗れたこともあって、来年こそは巨人を倒して優勝したいという思いが非常に強かったと思います。
このことも含めて結局は、FA権を獲得するまではポスティングの文字は封印して阪神でプレーしました。
そして2012年のオフにFA権を獲得して念願のメジャー入りがかない、カブス、レンジャーズでプレーしました。
しかし故障して手術してレンジャーズを自由契約となり、2016年に阪神に戻ってきました。
手術したこともあり、リリーフとしてかつての活躍はもはや難しいと金本監督が判断したと思い、先発として起用されました。
以前のストレート主体で力いっぱい投げる投球スタイルから、変化球を交えたピッチングスタイルにモデルチェンジしようとしています。
そして将来において投手コーチ、監督になって阪神をいつまでも支えてほしいと思います。
そしてこれから阪神に入団してくる選手たちに火の玉のストレートを伝授してほしいという期待感は阪神ファンとしては大いにあることでしょう。
<ミミィちゃんさん 女性>